メモ帳

恋の何歩か手前

矛盾しているようでしていない、懐かしいリズム

育休開始からあっという間に5ヶ月が経とうとしている。

仕事があった時は、決まった時間に起きて、決まった時間に家を出て、大体決まった時間に帰ってきて、翌日のために決まった時間に寝て、ということを繰り返していて、少なからず日々、時間に追われている感じがあった。

でも、育休中は、そういった「何時にこれをしなければならない」みたいなものがほとんど無いので、日に日に時間に対する感覚がゆったりしていくのが分かる。

起床も食事も風呂も就寝も、大体の時間は決まっているのだけど、仕事をしていた時ほどしっかりしなくても大丈夫だ。

例えば起床が少し遅くなっても、朝食と昼食を合わせて一食にするとか、そういう風に融通が利くから、慌てなくて済む。

そんな毎日を送っていると、ふと外に出た時、自分の時間感覚と普通に働いているであろう人たちの時間感覚が大きくずれていることに気付く。

街を行く人たちがとにかく焦っているように感じてしまう。

スーパーで食材を選んでいる時、レジで会計をしてもらっている時、横を通り過ぎる自転車や車、とにかくみんな慌てている、ように感じる。

心配は、そんなに慌てている人たちが大勢いる世間に向くのではなくて、いざ自分が仕事に戻った時に、周りに着いていけるのかってこと。

でも、こっちの時間感覚に今慣れてきているから、戻ったとしても慣れてしまうのだろうな。

冒頭では「あっという間に」と書いたのに、その後に続く内容は、時間の感覚がゆったりしているというもの。

矛盾しているようで、でも自分の感覚的にはしていないのだけど、やっぱり文章にすると変だ。

変だけど、こういうの、前にもあった気がして、そうだな、学生の頃のそれかもしれない。

眠る新生児はどんな夢を見るのだろう

すやすやと寝ている我が子を見て、勝手に笑顔になってしまうくらい愛しいという感情の他に、とあることが頭に浮かんだ。

というのも、新生児は、ほとんど目が見えていない状態だと言うけれど、寝ている時に見る夢は、どのようなものなのだろうということ。

そんな内容を、妻と話していたら、新生児もそうだけど、生まれつき全盲の人も、どのような夢を見るのだろう、という疑問にたどり着いた。

気になってしまって、検索したら、ある記事を見付けた。

全盲の私が眠った時に見る、夢とは?

上記リンクの記事を、勝手に要約すると、生まれつき全盲の人が見る夢は、映像としてではなく、感覚としてのものということだ。

リンク記事に紹介されているが、車の運転をしている夢だとしたら、運転している時の手元だったり、景色だったりが映像で再現されるのではなくて、カーブを曲がる時の重力や伝わる振動などを感じるのだと言う。

なるほど、少し考えれば想像できそうなことだけど、そういったところに疑問を感じたことがなかったので、全く未知の世界だった。

ということは、新生児の夢も、同様ではないだろうかと予想できる。寝ている時に腕や足を動かすことがあるのだけど、恐らく、それは夢を見ていて、私に抱っこされている時とか、妻に授乳してもらっている時の、身体に伝わる感覚が、眠りの中で再現されているのだと思えて、なおさら愛おしくなる。

 

眠ると言えば、子供を抱いて寝かしつける時、抱えている方ではない、添えた手で、背中ともお尻とも言えない場所をトントンと叩くと比較的スムーズに入眠してくれる。これは、育児あるあるだと思うのだけど、ある時、このトントンをしていたら、とあることが頭をもたげた。

子供をトントンと叩く手は、自分でも絶妙な強さだと思うのだけど、これを他のことで言い表すことはできないだろうか、ということ。何か、他の行動で、トントンの絶妙な力加減のことを比喩表現することはできないだろうか、と思ってしまった。

トントンと手を休ませずに、しばらく考えていたのだけど、なかなか良い例えが見付からなくて、やっと絞り出せたのは、犬猫を撫でる時の優しさに、ほんの少しだけ手の振りが加わった感じ、というもの。あまり、納得が行かないのが正直なところで、それはなぜなら、これを言ったら元も子もないのだけど、犬猫を撫でる時の優しさなんて人それぞれだからだ。そんなこと言ったら、これだ!っていう比喩はなくなってしまいそうだけど、誰か、とっておきのものを持っている人は、是非、教えて頂きたい。自身でも、引き続き考えてみますが。

 

犬猫と言えば、実家で飼っているネコがもう20歳近くになる。彼女に、生まれたばかりの息子を会わせたい。

私が中3の時に、これまた目がまだはっきり見えない、生まれて間もない状態で我が家にやってきた愛猫。彼女との暮らしは、実家を離れて、妻とアパートを借りた20代後半まで続くのだけど、互いに互いの成長を近くで見てきたということもあって、何というか、もう、私にとって、子供のような、兄弟のような、幼馴染みのような、はたまた母のような、祖母のような存在で、でも、やっぱりネコなんだけど、とにかく、大切な家族なのは間違いない。

息子を実家に連れて行って、家族に会わせてやりたい、と思うときに、当たり前のように、彼女の姿も思い浮かぶ。

彼女、小さな子供が大嫌いで、顔を合わせるとよく威嚇していたけど、我が子と会ったら、どんな反応を見せてくれるだろう。とりあえず、パンチが出たら怖いので、最初は、遠目から我が子自慢したいと思っている。

近況報告 育休期間に入りました

やっと地獄から解放された。10月の終わり頃に育休を取得する旨を上司に告げてから、今日、この時まで、本当に長かった。大げさでなく、地獄のような日々だった。多分、職場の人間がこれを見たら、自業自得とか言い出すのが容易に想像できる。
色々なこと(気力があるときに書ければ書きたい)があって、おかしな話だけど、もう、私には、この12月はやって来ないのではないかと、ほとんど諦めかけていた。
でも、時間というのは、自分の身に何が起きようが、それとは関係なく進んでいくみたいなので、無事に(?)育休期間に突入したことになる。
今日は、記念すべき、その1日目。半年間の休業を予定しているので、180連休の1日目になる。たくさん育児をして、それと同じくらいゆっくりして、好きなことも少しくらいできれば良いなと思っている。
実は、まだ、信じられない。夜明け前が一番暗いとは言うが、実際に、このひと月はとんでもなく真っ暗だった。他人の嫌な部分も、自分の嫌な部分も、うんざりするほど味わった。自分はなんてダメな人間だろうと、何度も思ったりした。もとい、冷静になった今、思い返すと、思わされた、という方が正確なのかもしれない。
時には、周りが暗すぎて、自分の身に何が起きているのか、分からなくなる時さえあった。でも、それが、日を、たった1日跨ぐだけで、簡単に、眩しいくらいに明るくなってしまうのだから、自分の見ていた日常というのは、世界というのは、とても小さな範囲だったのだと思い知らされる。
仕事上の様々なことで占拠されていた頭の中の大半の部分が、すっかり解放されて、様々なことを考える余裕ができたのを実感している。頭が、鉛から発泡スチロールにでもなったように軽くなった感じだ。なんでも考えることが出来そうな、全能感すら覚える。
でも、今は、雑多なことをあれこれ考えるよりも、休みに入った喜びをしっかり味わいたいし、妻と子供と一緒に居られる幸せを噛みしめていたい。
その内、余裕が出てきたら、今後のことも色々考えておきたいな、と思う。
苦難の上に勝ち取ったベーシックインカムで、心身にどのような変化が起こるのかも、興味があるので、そう言った点も注視していければと思っている。
以上、近況報告でした。

十中八九、モレスキン

物欲はあまり無い方なのだけど、最近、珍しく気になっていたものがある。

Moleskineモレスキン)のノートだ。

ノートのくせに、ちょっと値段が高い。2000円くらいする。「ノートのくせに」って書いたけど、私は、ノートが好きだ。特別、知識がある訳ではないのだけど、家には、色々な種類のノートが結構たくさんあって、そして、全部、全然使っていない。使っていないノートが家にたくさんあるのは分かっているのだけど、魅力的なものに出会うと、つい購入してしまう時があって、それで、たくさんの使っていないノートがどんどん増えていく。

そんなコレクションたちを時々、思い出したように収納から引っ張り出しては眺めて、あぁ、そういえば、こんな魅力的なノートを持っていたな、と、所有欲を満たす。それで、この魅力的なノートたちに、何を書こうか、と想像して、また収納の扉を閉める。多分、それが好きなんだと思う。実際に、活用するのではなくて、そうやってコレクションすることが好きなのだと、最近、気付いた。

今回も、そのコレクションに仲間入りしてしまうかもしれない1冊のノートが、今、このブログを書いている私の隣で、得も言われぬ存在感を放っている。

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モレスキン、ポケットサイズのノート。ソフトカバーで、用紙は無地。

ノート売り場で、買うか、買うまいか、相当悩んだ。多分、30分以上は、売り場をうろうろしながら悩んでいたと思う。だって、税込みで2200円もするんですよ。ノートって言ったら、私の中では数百円が相場で、所有している一番高いものでも、1000円弱くらいだったと思う。それが、急に2000円って、そりゃ、迷いますよ。なんせ、活用するかどうか分からないのだから。コレクションになる確率が高いのだから。

でも、最後には、一切のことを考えないようにして、脇目もふらずに、レジまで一直線に早歩き。今まで同じ場所をずっとうろうろしていたのに、急にレジに向かって早歩きしだした様子を、もし、店員さんが始終見ていたら、きっと、なんなんだろうって、不思議に思うかもしれない。私だったら思う。でも、そんなことはお構いなしに、鼻息荒くして会計を終わらせて、マスクの下にちょっとだけ笑みを作って、購入した商品はズボンのポケットにそのまま突っ込んで、その場を立ち去った。やった…!やってやったぞ!って。

 

以前からモレスキンの存在はもちろん知っていたのだけど、なにせ値段がお高いので、必死に興味を持たないように自分をコントロールしていた。その封印を解いてくれたのは、職場にやってくる営業さんだ。小綺麗なスーツを身にまとう彼は、いつも、颯爽っと現れて、まるで手品のように、どこからともなくモレスキンの手帳を取り出して、何か重要そうなことをメモしながら、颯爽と帰っていく。

最初は、手元の手帳を気にしてはいなかったのだけど、いつからか、それがとても気になるようになっていた。あの格好いい手帳は、多分、モレスキンではないか?

そう思ってしまったら、もう、彼の持つあれは、私の中で完全にモレスキン。人付き合いが得意ではない私は、まさか、「それ、モレスキンですか?」とか直接聞けないし、じろじろ見るのもちょっと失礼だから、あれはもうモレスキンなのだと、決定させてしまった。というか、十中八九モレスキンだよ、もう。知らないけど。

とにかく、もはや、彼の持つ手帳がモレスキンモレスキンでないかは関係なくて、私の興味は、彼の持っている手帳から、モレスキンへとすでに移行が完了してしまっていた。時すでに遅し。興味の移行が完了してから数日経過した本日、ブログを書いている私の隣で鎮座している。こうなることは薄々、勘付いていた。

今日の昼頃に購入してから、一日持ち歩いたのだけど、書き込んだことは、ノートを買うのに30分以上迷ったという一文と、義実家に行った際に、財布を忘れてお義母さんに1000円借りた、というメモ。高かったからと言って、背伸びした内容をそこに書きたくはない。私にとって重要なこと、忘れたくないこと、忘れてはいけないことを、どんどん書き込んでいこうと思う。今日は枕元に置いて一緒に寝ようと思う。

君付け

旧友に出産の報告をしたら、飯でも行かないか、ということになって、お好み焼きを食べてきた。

僕らは、小学校からの付き合いで、高校まで同じ学校に通った。その後も何年か、しばらく集まっては、毎回、夜通し何をするわけでもなく一緒に過ごしたものだった。なんだか、今、振り返ると、冴えない若者の青春をそのまま絵に書いたような日々を過ごしていて、ちょっとだけ恥ずかしいような、でも、純粋に楽しかったなぁ。

久しぶりでも、そのままの関係で再会できるのが嬉しい。毎年、年末には忘年会を開くので、1年に一回は会っているのだけどね。だから、久しぶりと言っても1年弱といったところなんだけど、でも、毎日のように会っていた頃と比べると、久しぶりには違いない。

私は、その友人のことを君付けで呼んでいる。彼も私のことを君付けで呼ぶ。もう何十年もの付き合いになるのに、僕らは互いを君付けで呼び合う。

最初からそうだった。多分、小学生の時、出会った当初から。

最近、そのことになんだか違和感を覚えてきて、ちょっと呼び捨てで呼んでみようかなと思って、今回、意を決して、でも、結局、喉元で飲み込んでしまった。

だめだ。なんだかとても恥ずかしい。想像するとくすぐったい。

それで、どうしたら呼び捨てできるのか、と色々考えてみて、なんとなく自分の中で出た結論があるのだけど、それと言うのは、もうそのままでいいのではないかというもの。君付けで良いじゃないか。

もし、仮に彼との友人関係が、ずーっと、年寄りになるまで続いてたとして、その時に、笑いながら話してるのだけど、それぞれお互いのことを君付けで呼び合っている。素敵じゃないかね、うん。どうだろう。いや、でも、年相応の呼び方としてはさん付けかな。それも素敵だね。そこまで付き合いがあるのにさん付け。良いと思うよ、個人的には。

ということで、彼と同じくらいの付き合いがあって、互いに君付けで呼び合う人があと二人くらいいるので、彼らもまた、そのままでいいや、と思ったり。

そのままで、あるがままで、肩肘張らないで、やりたいように、好きなように。そういう生き方が理想的。我が子も、そういうふうに生きて欲しくて、そういう名前を付けました。その名前を、友人が褒めてくれたのが、とても嬉しかった。友人のことを、いつか我が子に紹介する時は、もちろん君付けで、とか思ったり。