後悔のピント
受付してくれたハローワーク職員のおじさんがとても陽気な人だった。
「あなたと同じ様な境遇の方が来た時、こんなことがあって…がはははは!」
みたいな感じで、一人で話して自分で大笑いする。
楽しくて良いんだけど、私たちの隣の席では静かに淡々と受付が行われていて、ちょっと気になってしまった。
うちらうるさいよね、ごめんねって思った。うるさいのはおじさんなんだけど。
おれは、友達とかと電車に乗って話していると、周りが気になってしょうがなくなる。静かな車内だとなおさら。
あとは病院の待合室とか、ちょっと静かなレストランとか。
うちらうるさいよね、ごめんねって。
他人は他人のことをそこまで気にしてないのだろうけど。
〜〜〜
息子(7ヶ月)が脇のところを軽く支えてやれば自分の足で立つようになったので、実家の母に見せに行ったらとても喜んでいた。
実家の母は、昔のことを思い出しては悔やんでしまうことが人より多いと思う。そしてそれを一緒に住んでいる父や妹に漏らす。
昔からそうなのだけど、そんな自分が嫌になって最近、友達に相談したら
「考えてしまうのは仕方ないとして、誰かに話すのは自分のためにも良くないのでは」
と言われたらしい。
いつか何かの本で読んだけど、人は自分が話した言葉を自分の耳で聞いて、自分自身でもその内容を確かめているみたいな。ちょっとうろ覚えだけど。
確か茂木健一郎さんの本だったかな。間違えてたらごめんなさい、茂木さん。
私たちは都市に暮らしていて、人と言葉を交わす事がとても重要で、むしろそれが生活を支えていると言っても過言ではない。
ということは、都市に住む以上、日々使う言葉が自分自身を作っていくと言っても過言ではないのかもしれない。
私も気を付けなければ。
みんなが楽しそうにやってるところへ水を差す様な嫌味を言いたくなるおれはSNSが向いていないんだろうな
— およぐさかな (@swim_sakana) 2021年6月21日
Twitterにこんなことを呟いている場合ではない。Twitterにこんなことを呟いたとしても、他人は他人のツイートをそこまで気にしてないのだろうけど。
私も最近、ある時期のことを思い出しては激しい後悔の念に駆られる。
そのある時期というのが、多分、後悔しやすいところにあるのだと思う。
後悔をする時、今から遡って近過ぎる過去でも遠過ぎる過去でも駄目なのではないだろうか。
近過ぎると記憶が比較的鮮明なので過去としてまだ上手く認識できない。遠過ぎると記憶が曖昧になってしまって思い出し辛い。
後悔というピントにちょうど合う過去があるのではないかと思う。
だから、今はピントがズレてくれるまでじっとやり過ごすしかないのかもしれない。
そうするとまた今度はその後ろに控えている過去にピントが合うかもしれないけど。
そんなことをふと考えたりしている
要するに私には難しいことは分かりません
なにかとにかくアウトプットしなければいけない。そんな強迫観念みたいなものがいつからか頭の中に巣食っている。
インターネットを使えばSNSや動画配信サイトなど、その他諸々で気軽にアウトプットすることができる。
承認欲求のためと言ってしまえば簡単かもしれない。発言とか作品(と言うのは少々大袈裟な場合もあるかもしれないけれど)が認められれば、人間はとても気持ちが良くなる。
でも、それだけではないはずだ。当たり前だけどアウトプットの目的はそれだけではない。
自分の為にアウトプットする。いや、承認欲求を満たすのも自分の為ではあるのだけど。
承認欲求が目的ではなく、他者の反応に重きを置かないアウトプット。自分の分身をそこに作り上げておいて自分で忘れないようにするためのアウトプット。インプットしたあらゆることを自分のものにするためのアウトプットだ。
承認欲求よりもずっと大切な、アウトプットの目的。これに気付くまでにえらく長い時間を費やした気がする。
そして、仮に本当にそれに気付けているのだとしても、やっぱり承認欲求のやつが私の心を支配しようとする。でも、それはそこまで悪いことではないとは思うのだけど。
認められたいという感情は人間の本能なのだから決して悪いことではない。でも、はっきり言って邪魔ではある。
だから私にとってそれが一番重要なのではなくて、もっと重要なものがありますよって、いちいちアウトプットして自分に知らせなければならない。すぐ忘れそうになるから頻繁に。
話は戻るけど、私がアウトプットの目的にしたいのは、自分のために自分の分身を作るということ。
でもそれってネットでなくてもいい。こうしてブログに書く必要はない。なぜならブログに書く以上、他人が読むかもしれないからだ。他人が読むかもしれないってことは、少なからず他人を意識する。それは、ほんの少しだとしても承認欲求のやつが顔を覗かせるってこと。
だから、自分だけのためにアウトプットするならばメモ帳とかノートに書けばいい。それはそうなのだけどさ。
そんなこと分かってはいるけど、私は今こうしてこういうことをここに書いているってことはやっぱりどこかで認められたいんですよね。それはそれとして自分でそれを受け入れればいい。悪いことではないからね(何回言うんだ)。
なんかここまで良く分からないことをうだうだ書いてきたけど、要するにブログが好きなんだよ。ブログが好き。多分それで、文章を書いて発信するのも好き。
でも承認欲求に支配されてそれだけのために書くモンスターになるのはまっぴらごめんてこと。だからバランス良くやりたいの。
自分のためのそれと承認欲求の比率が8:2くらいがいい。いや、9:1くらいでもいいかな。
その為には格好つけないようにしたい。承認欲求のせいで書くことに格好つけてしまうと自分が考えていることとか思ったことからどんどん離れていってしまうから。
離れてしまうと当たり前だけど自分の分身を作り出すことが出来なくなってしまう。
そうなってしまうと比率がひっくり返って1:9とかになってしまうので、ちょっとそれだと意味がなくなる。時間の無駄。
少し前に芥川龍之介の歯車を読んだのだけど、ちょっと何が言いたいのか意味が分からなかった。
そういう時は「芥川の歯車、ちょっと意味が分からなかった。て言うか"のみならず"使いすぎだろ」と正直に書けばいい。
格好つけて思ってもいないことをああだこうだこねくり回しているようじゃ意味がない。時間の無駄です。
と言うことで、書きたいことは全部書いたのであとはこれ読んだ人ちょっとだけ褒めてください。
ミュート
LINEにて学生時代の友人グループにzoom飲み会のお知らせがあったので、ちょっと覗いてみた。
妻子が寝ているので、イヤホンを耳にあててカメラとマイクをミュート。
コメントを送信することで、視聴者として参加できるのが面白かった。
昔、よくニコ生を見ていた時のことを思い出して、端々に懐かしさを覚えながら夜が更けていく。
スマホの画面に映し出されるみんなは、あの頃からあまり変わってないように見えたし、とても大人になってしまったようにも見えた。
楽しそうな友人たちの顔を見て、自分もカメラとマイクのミュートを解除して参加したい気持ちもあったのだけど、文字で参加しながら、私にはこれがちょうどいいのかもしれないと思った。
もちろん、横で家族が寝ているから声も出せないし、部屋も暗いのでカメラも多分映らないだろう。
でも、そういうどうしようもない理由を抜きにしても、私は、文字での参加が好きだ。
画面の相手に向かって、カメラで自分の姿を写しながらマイクで発言するのもそれはそれで良いんだけど、ちょっと疲れてしまう時がある。
それは多分、世の中がこういう状況にならなければ分からなかったことだと思う。
だって、画面越しに飲み会をするなら会おうよって話になるだろうし。
でもこういう状況になって、気軽に顔を合わせられないから、それならということでオンライン飲み会なんだけど、いざやってみると疲れるんだよね。
対面する飲み会でも少なからず疲れるんだけど、それはなんて言うか心地よい疲れみたいな感じで、好きな部類に入るんだ。
飲み会の後、一人になった時の安心感みたいなものがちょっと好きで「今日は楽しかったな」とか「あまり楽しくなかったな」とか考えながら帰るのが良かったりする。
それはもちろん、飲み過ぎていないことが前提なのだけど(散々いろいろな人に迷惑をかけている)。
とにかく、実際に対面した時と画面越しの時とでは疲れ方がちょっと違っていて、どちらかと言うと、画面越しの方が嫌な疲れ方って言うか、疲れの先にある爽快感みたいなものがない。
だから、はっきり言ってしまうと、オンライン飲み会にカメラとマイクを起動させて参加することは気が進まないんだ。
後は、マイクを使って喋っていると、声の音量が大きくなってしまうのも気がかり。
電話の時もそうらしいんだけど、妻に指摘されて初めて気が付いた。
いや、厳密に言うと、気が付いていたんだけど、どうにもならないと言うか、制御が難しいという感じ。
喋っているうちにいつの間にかボリュームが大きくなっていってしまう。
対面している時と違って、オンラインは相手の機微みたいなものが窺いづらい。
画面越しだからなのか、コミュニケーションが大雑把になると言うか、こちらの発してることが本当に届いているのか不安になってしまう。それは、物理的にも心理的にも。
でも、言ってしまえば対面でもそれは分からないけれど。対面だから相手の細かな表情とか感情とかが読み取れてるというのは驕りかもしれないし、対面だからこちらの言いたいことが相手に伝わっているのかも分からない。
オンラインだから、画面越しだから、とか散々書いてきたけど、対面でも分からないことだらけだよ。
そうやって分からないながらも実際に会って飲み食いしながら言葉を交わして、いろいろなことを確かめたり、時にはすれ違ったりして、地道に積み上げてきたはずなのに、意味の分からないウイルスによって一発で潰されてしまった。
いけない。話が逸れてしまう。
まぁ、何が言いたいかって、対面にしろオンラインにしろ、私はコミュニケーションが苦手だってことだ。
とても少ないけど、会って話したい人はいる。会って話したい人はいるんだけど、そういう人に会う時も毎回緊張してしまうし、会ってすぐはどうやって話したら良いのか分からない。
でも、会いたい人には会いたいんだよね。いくら緊張してしまっても、すれ違ってしまっても、結果的に楽しくない時間になってしまっても。
確かに会いたいと思う気持ちがあるんだけど、一方では、なるべく会わないでいたいと思ってしまう時がある。
会いたくないのではなくて、会わないでいたい、という気持ち。何が違うのかって聞かれても私も分からないよそんなもの。
人に会うと緊張してしまって疲れてしまう。
どんなに気の置けない関係だろうが、長い付き合いだろうが、当たり前だけど、一人でいる時とは全く違う神経を使う訳なので少なからず疲れてしまう。
だから、話は戻るんだけど、カメラもマイクもミュートして、文字を一方的に送りつけている方が楽なんだよね。
そう、楽なんだ。とにかく疲れることはしたくない。生きていく上でなるべく疲れることはしたくない。本当ならこんなものも書きたくないんだ。文字すら打ちたくない。これだって書くのも少なからず脳みそ使って(ほとんど使わない内容だったかもしれないけど)、指も動かして疲れるんだから。文章なんて書きたくない。何で書いてるんだろうね。本当にまったく、良く分からないけど、書かなきゃいけない気がしてしまう。こうして自分の中にあるものを表に出さないといけない気がしてしまう。このネット社会で、個人が気軽に発信できる現代において、何もしないのは何だか良く分からないけど、いけないことのような気がしてしまう。一種の強迫観念みたいなものじゃないかよ本当は何もしたくないんだよ助けてくれ
あの時の今日のこと
義祖母、つまり、妻のおばあちゃんは、もうすぐ100歳になる。
最近、体調を崩して入院してしまったのだけど、ゴールデンウィークが明ける頃、退院出来そうだと、妻が教えてくれた。
入院生活のせいなのか、義祖母は、あまり自ら話しをしなくなってしまったらしい。
私は、そんな話を聞きながら、心配になり、それと平行して、あることを考えていた。
きっと、私も順調に歳をとれば、おじいさんになるだろう。
今よりも、もう少しだけ身近に自分の《死》を意識しているに違いない。
そんな時、今日のことを思い出す気がする。妻に義祖母の様子と、退院の話を聞いた時のことを。
あぁ、きっと義祖母は、あの時、こういう気持ちだったのかもしれないな、って。
もしかして、私にもひ孫が出来ていて。
子供や孫、ひ孫の未来のことを考えながら、今日のあの時のことを、朧げな記憶から少しひっぱり出してきて、過去と今と未来を、不器用に、下手くそに繋げるのかもしれない。
歩幅
妻を病院に送り届けて、診察が終わるまでの時間、子供を抱きながら適当に周辺をふらふら散歩した。
《適当に》と言ったけど、もしかしたら、意識的にそこに足が向かっていたのかもしれない。
ふと目をやると、10年ほど前に仕事で頻繁に通っていた建物が目の前にあった。
私の胸に体重を預けて寝ている子供に向かって「ここはお父さんが昔、仕事で良く来ていた場所なんだよ」と話しかける。
マスクの中で小さく呟いた言葉は、私の胸のあたりまで届いたかは分からない。そのまま、歩みを止めることなく、通り過ぎる。
10年も経っているのに、しょっちゅう通ったのに、懐かしさみたいなものは特に感じられなかった。
少しだけ喉が渇いたな、と思いながら。もう妻の診察は終わっただろうか、と思いながら、歩みを進める。
長かったようで、あっという間のような、10年間。あっという間で、長いような、30分。
歩幅は、変わっているのだろうか。