メモ帳

恋の何歩か手前

うろこ雲

多分、私は、今日のことを一生忘れないと思う。

今日は、ブログを書くか迷ったけれど、やっぱり書こうと思う。

ここ数日は精神的にドッと疲れてしまったので、ゆっくり何も考えずに、ブログのことも忘れて過ごそうと思ったけど、でも、やっぱり、自分のために残しておこうと思う。

ブログはいつでも書ける。時間があればいつでも。でも、今日の、今のこの気持は、この瞬間にしかパウチできない。

数時間前の気持ちは、その時のことを思い出して書いていくしかないのだけれど、でも、明日書くよりも、まだ今この時の方がそこに近い場所にいる気がするので、気持ちの残像がふわふわと体の周りに漂っている間に、急いでここに詰め込んでしまおうと思う。

 

電話は全部で3回鳴った。

 

最初の電話は14時くらい。電話口の妻の声は叫びとも喘ぎとも言えない、形容し難い、でも痛くて苦しんでいるのがはっきり伝わってくる、そんな、どう考えても普通の状態とは言えないもので、耳にした瞬間に頭が真っ白になってしまった。

 

帝王切開をすることになるかもしれないから」

 

妻の震えるような、怯えるような声を聞いて、何もできない私は、電話を片手に仕事を進めながら、泣きそうな声で、そうか、でも、大丈夫だよ、と言うのがやっとだった。

目の前の景色がこれ以上滲まないようにしながら、情けないけど、目の前にある仕事を片付けていくしかできなかった。

私は、今、何をしているのだろう、と思いながら。

 

2回目はそれから2時間くらい後。

職場の非常階段で病院の先生から手術の説明を受け、同意を確認された。説明は、少し難しくて、しかも、電波のせいなのか声がざらざらしていて聞き取りづらい。

少し離れた向かいのビルで工事をしている現場作業員の軽快な足取りを目で追いながら、動転した気持ちを落ち着けようとするのだけど、やっぱり内容がなかなか頭に入ってこない。大事なことなのだから集中しなくては、と、思えば思うほど、声が遠くなっていく。

先生が最後に妻に電話を渡してくれたのだけど、でも、やっぱり私は、泣きそうな声で、大丈夫だから、と言うのが精一杯だった。

通話が終わったスマホの画面から少しだけ視線を上げると、非常階段の踊り場からうろこ雲が見えて、それが妙に印象的で、深呼吸してからそこだけ冷静になって「この景色は多分、ずっと忘れないだろうな」なんて思ったりした。

 

3度目は帰り道。

もうすぐ自宅に着くというところで右のポケットが震えて、慌ててスマホを取り出して画面を見ると知らない電話番号。でも、それが病院からだってことはもうなんとなく分かっていた。

 

「母子ともに元気ですよ」

 

その瞬間に、張り詰めていた緊張の糸がフッと切れて、私は、お礼を繰り返すだけのロボットになってしまったようだった。

電話口の妻の声は、疲れている様子で、トーンは元通りとまではいかないけれど、でも、これまでのような不安の色は、もうどこにもなくなっていた。私たちはその時、まるで何年かぶりに再会したかのような、安心感と高揚とを一瞬のうちに共有したのだと思う。本当に少ない言葉で120%の喜びを分かち合った。

 

妻から送られてきた、我が子の写真を見て、なんども笑ってしまう。微笑むのとプッと吹き出してしまうのとちょうど中間みたいなところにある笑い。笑み。

とても嘘みたいだ。本当に、なんと言っていいのか分からないけれど、まだ嘘みたいなんだ。あのうろこ雲も、本当はあんなにはっきり見えていなかったのかもしれない。ビルで作業をしていた人たちも、そこまで軽やかな足取りではなかったのかもしれない。

 

私は、自宅に帰ってきてから、友人や家族、親戚など、色々なところに連絡を入れる。

妻が、それをすこし離れたところから見守ってくれているような気がした。彼女は、とても大変な出来事を乗り越えた。大きな困難を乗り越えた妻は、もう大体のことが余裕で、私が大勢の人にスマホでメッセージを送っているのを見て、微笑んでいるような気がするんだ。