メモ帳

恋の何歩か手前

映画は、限られた時間だから、良い

普通に朝起きて、仕事に行って、帰りに牛丼買って、帰宅後洗濯してシャワー浴びて食って麦茶してブログ。

やっぱりだめだ。妻がいないと、私は。

お産に備えて10月から妻は実家に帰ったんだけど、最初は新鮮だったからまだ大丈夫だった。何年も一緒に暮らしてきて、二人が家に揃うと大体のことは同じタイミングでやっていた。ご飯を食べるときも、酒を飲むときも、歯を磨くときも、床に着くときも。それが急に一人になったら、最初は少し新鮮だった。実家で好きなように暮らしていた頃を思い出したりして。

でも、最初に違和感を覚えたのは洗濯物だった。一人になってから最初の時はまだ妻の洗濯物が混ざっていたんだよね。実家に行く前に脱いでいった抜け殻。それを干したら、もう次の回から妻の洗濯物がなくなってしまった。

それでも、しばらくはそこまでそのことについては気にならなかった。ゆっくりと、時間をかけて次第に不思議な気持ちになっていったと思う。なぜ私は、私の洗濯物しか洗ったり干したりしていないのだろうって。洗濯のたびに少しずつ違和感を蓄積するようになっていった。

そして今日、それが部屋全体に及ぶようになってしまった。見渡すと、私のものしか、ない。妻のものは、端のほうにちょこんと申し訳無さそうにあるだけ。多分、妻が実家に戻った最初の日からそうだったのかもしれないけど、そこまで気に止めなかったのかもしれない。

でも、今日それに気付いてしまって、いや、少し前から薄々気付いていたのだけど、だから、ちょっともう、なんか、我慢できなくなって、収納の妻の方のスペースの扉を開け放って、今、なんとか精神を保っている。

 

最近は通勤時にモーツァルトを聴いている。これまでは、行きはNHKのラジオ。帰りは浜田省吾ビートルズだった。行きのラジオはよく分からないけど、いつの間にか習慣になっていて、浜省とビートルズはただ好きだから。

でも、最近、寂しさで心が不安定になっているから、そういうときはクラシックを聴くとすごく落ち着く。クラシックなんて全然知識がないから、とりあえずモーツァルト聴いときゃ間違いないと思って聴いてるのだけど、通勤時間が映画のワンシーンのようになってしまう。

クラシックって、なんていうか、ムードが凄い。普通に車が交差点を曲がっていくだけなのにドラマチックに見えてしまうし、後ろから近づく革靴の音とか、虫の声とか、自転車のチェーンの音とか、信号の点滅だとか、木々の揺れる様とか、とにかく、全てがムーディになってしまう。

耳の穴に入れるタイプのイヤホン(カナル型っていうの?)ではなくて、耳穴を塞がないタイプのものがおすすめ。オープンイヤーって言うのかな。

理由は周りの音が聞こえてくるから。音楽と環境音が合わさるのが良い。それがなんとも言えないフィルム感を生んでくれる。あとは、これもかなり重要な利点だけど、危なくない。車とか自転車が近付く音も感知できるのがとても安心できる。

なんか宣伝みたいになっちゃったけど、とにかくクラシック音楽とオープンイヤーのイヤホンで通勤の時間が映画になって、それがほんの少しだけど、今の心を落ち着かせてくれていると思う。

帰る時間の、夕焼けが夜に溶けるギリギリのところで聴くと、純粋に、ああ、綺麗だな、と思えて、心の棘みたいなものとか、暗くて冷たいものがその一瞬だけスーッとリセットされる感じがする。

その一瞬だけでも良い。部屋に帰ってきてイヤホンを取ると、「しん」とした現実に容赦なく引き戻されるのだけど、だけど、その一瞬だから良いのかもしれない。映画は、限られた時間だから、良い。

 

今しがた、妻から電話があった。病院での処置の話を聞いていたら想像以上に大変そうだ。大変なのは、分かっていたつもりでも、その想像を軽く飛び越えて上書きされた。

私にとってお産というのは、大変なイベントで、でもそれはどこか現実離れした話で、とはいえ世間では結構ありふれた話で、でもやっぱり想像でしかない。女性はそれを現実に自分の体で体験できるのだから、想像以上のものをそこから感じることができるんだと予想する。男の私にとっては絶対に手に入れることができないものだろう。

立ち会うことができたら、私にも、その片鱗、それををさらに小さくして、そこからさらにいくつかに分けたくらいのものを感じることができたかもしれない。そう考えてしまって、現状が辛くなってくるし、悔しい。

私は、明日もいつもと変わらずに職場に出向いて、心配になりながら、でも、仕事をする。それくらいしかできないから、情けなくなる気持ちもあるけど、それくらいしかできないから、妻は、女性は強いのだろう。

めそめそしていても仕方ないので、そろそろ寝ようと思う。